第10話 理想と現実
「ぶへっくしょい!!」
クーラーが効き過ぎて大量の唾を飛ばしクシャミする田子作。余りの暇さに入口のガラス越しに通りの行き交う人を眺めていたのである。
「あ~あ、窓ガラスに唾が。自分で拭いてくださいよぉ。」
エーコは口を尖らせる。
「わーってるよ、うっせーな。」
鼻をすすりながら答える田子作。
「今日も暇ですねぇ。一体目論見はどうなってしまったんでしょうか?」
嫌味な口調でエーコは田子作を横目で見る。
「客の行動は釣りの時の魚の心理と同じだ。べた凪なぎでさざ波も立たん時は何をやっても無駄だ。待てるかどうかが重要だ。」
「他のお店は色々仕掛けて何とか売り上げが持ち直してきたって報道がありましたよ。」
食い下がるエーコを面白くないと言った顔で見返す田子作。
「他は他、うちはうち。立地が違うんだからしょうがないだろうが。」
「前のお店の時もそう言ってましたよね?だからここに引っ越して来た訳だし。やっぱり田子作さんに問題があるのでは?」
いつになく苛立っているエーコ。
「なんだよ俺のせいかよぉ!」
流石にこれには田子作もムッとしている。
前夜のこと。
エーコはいつものごとくコントローラーで事態の進捗状況を確認している。
「かなり良いところまで来てるのになぁ。巨大な負のエネルギーを持った修正人の活動パワーも落ちてないしなぁ。残り2か月でギリギリこの世界の消滅を防げるのか心配になってきましたよぉ。」
ブツブツ独り言を呟きながらシミュレーションを続ける。
ピー太郎は『求愛ダンス』をデスクの脇で踊っている。羽を広げ足で嘴くちばしを高速で叩きながらクルクルと小さな円を描くように回って見せる。
そんなダンスは見飽きたのかまるで相手にしないエーコ。
それでもピー太郎は今日も踊るのである。
「ねぇちょっと。これなあに?」
13時過ぎに入ってきた60代と思われる上品なマダムが田子作に問いかける。
マダムの指の先は1m四方のパネルに貼られた手書きのポスターがある。
手書きポスターには『洗濯船的開運法』が箇条書きで並んでいる。
全ての項目を声を出して読み上げるマダム。
「あ、神道や仏教の教えを現代の人にも分かりやすく科学的根拠のある方法で書き直したものです。本当にこれだけで運が開けるんですよ。」
楽しそうに田子作は語る。
「あらそう!?これ写真撮っていい?」
スマホをバッグから取り出すマダム。
「あ、どうぞどうぞ。出来るだけ多くの方に実行に移していただければ嬉しい限りです。」
降り注ぐ7月の陽光に神社のイチョウも青々と照らされている。
そろそろ夜弁当の受け取り開始時刻が迫った頃、何やら真剣な表情で呟く田子作。
「まずい・・・非常にマズイ。」
いつも余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)な田子作がパソコンを睨み電卓を何度もはじきなおしては焦っていた。
「どうしたのですか青い顔をして?」
心配そうにエーコは客席テーブルを拭く手を止めて一番奥の田子作のテーブルへ近寄ってくる。
「この調子だと今月末の支払いに窮する。」
隠しても仕方がないと諦めたのか素直に白状する田子作。
「何か手はないのですか?今までも何度も危機を乗り越えてきたじゃないですか?」
何とか田子作を励まし妙案を思いついて貰おうとするエーコ。
「チワ~ッス!トマトの王様『トマト地主』のアイちゃんどえーす!!」
入り口の扉がガラリと勢いよく開き、クーラーですっかり冷蔵庫の中のようになった部屋に南国の熱い風がドッと流れ込んできたような状態になった。
あまりに突然のことで田子作達は一瞬固まった。
「どうかしました~?」
やせ型長身の男は真っ黒に日焼けした顔にキョトンとした表情を浮かべている。
我に返った田子作は慌てて取り繕った。
「ど、どうしたの?あれ?今日は納品日だっけ?」
「あ、いえいえ、そうじゃないんですけど本日が今シーズン最後の収穫日だったんで、もしかしたらご入用かなと思いまして。テヘ!」
どこまでも明るいトマト農家の『アイちゃん』。
「これで最後!?う~ん、どうしようかな?」
今月は予算的にかなり苦しいためこれ以上余計な在庫は持ちたくはないのだがわざわざ遠方からトマトを持って来てくれているのに無下に断るのもどうかと躊躇う田子作。
『アイちゃん』は遊び人風な外見とは裏腹にとても気の利く優しい人物で、すかさず田子作の状況を察した。
「あー、無理に買わなくても大丈夫ですよぉ。好きで来てるだけですから。」
彼は、海水で育てる極甘トマト『トマト地主』で知られる有名な生産事業所の社員である。
数か月前にこの店に飛び込んできて必死に自社のトマトの説明を始めたのだった。
余りの熱意に押され毎週購入することにしたのだが、7月も上旬となると塩系トマトの旬は終わるらしい。
「あ、いやいや、全部貰うよ。」
『今月はあと4週間もあるし何とか月末までに売り切ってしまえば良いか。』
そんな皮算用で気の良い田子作は持ち込まれた分を全て購入してしまうのだった。
結局この後夜弁当の準備をそそくさと済ませるとアイちゃんとの世間話に花が咲き、お開きになったのは深夜0時を過ぎていた。
「本当に気が合うんですね彼と。」
少しむくれた表情のエーコは皮肉っぽく吐き捨てる。
「彼だって楽しんで帰っただろ?この店は誰一人寂しい思いをさせないのが信条だ。たまにはいいだろ?」
すっかり不安な表情が消えた田子作を見ていると少し安心したのか急に眠くなり大きな欠伸で応えるエーコ。
「フニャフニャ・・・でもどうするんですか明日から?」
エーコは先に田子作を店外へ追い出し、店の明かりを消し扉に鍵をかけながらも具体的な対策を聞いておこうと思った。
「・・・こうなれば禁じ手を使うしかないかもな。」
顔から陽気さが消え、眉間に皺を寄せながら田子作は呟いた。
「禁じ手って?」
少し驚いたエーコは聞き返す。
「肉汁とヤバい小麦と砂糖を合わせると薬物よりも強い中毒性があるんだ。」
苦々しい表情で応える田子作。
「ヤバい小麦を使うんですか?!それじゃあ今のお得意様を騙すことになりませんか?」
「しっー!デカいよ声が!」
真向いの神社にお参りするため道路を横断していた田子作は隣を歩くエーコを制する。
「だってそれじゃあお得意様に対する裏切りじゃないですか!」
人一倍正義感が強いエーコは食い下がる。
「お得意様の分は今まで通りだし、ヤバい小麦粉を使うメニューは『健康にこだわらない普通の弁当』ってことにすればいいんだろ?」
鳥居の下で揃ってお辞儀をして境内へ入ってゆきながら議論は続く。
「それならいいですけど、それじゃあウチでお弁当を買う意味がありますか?みんなウチの弁当を食べて健康になったとか健康的に痩せたって喜んでくれてる訳だし。」
「だからそうじゃない『胃に悪くても味が濃くて安くて大盛』が好きでヤバい小麦にも耐性のある人達に中毒になって貰えば良いだろ?」
両腕を組み納得がいかない表情を浮かべエーコは反論する。
「中毒って発想が嫌いです。」
「確かに言葉は悪いが実際にはどこのメーカーも飲食店も恐らくそうしてると思うぜ。そうしなけりゃ客足が安定しないんだから。健康なんて病気になるまでみんな無関心だしな。」
いつもの切れの良さが全く感じられない田子作の言い訳がましい発言に憤りを隠さないエーコ。
二人は5円玉を手水鉢で洗い終え本殿の前に立っていた。
「ふんっ!それを神様の前でも言えますか?」
「ぐっ!!」
流石にこれには絶句するよりほかの無い田子作であった。
「ひと眠りして明日になっても考えが変わらないならそうしましょう。」
自分も良い知恵が出ないのに田子作ばかりを綺麗ごとで追い詰めるのも違うと感じたエーコは妥協案を提示するのだった。
二人は深夜の住宅地に鈴の音が響かないよう静かに揺ゆすると二拝二拍手一拝をしたのち神社を後にした。
日付が変わった真夜中にもかかわらず生暖かい風がご神木の銀杏の葉を揺さぶっていた。