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第34話 覚悟

「あ、このクッキー美味しいですね!」

カフェ『コペラ』店主の小板こいたは小さめのクッキーをカウンター内で頬張っている。

長身で目鼻立ちがクッキリとした30代後半と思われる男はクッキーの入った小袋をまだ数袋手に持っている。

「しかもグルテンフリーは勿論の事、低フォドマップのクッキーなんですよ。」

さりげなくPRする長身男性。

「正直、グルテンフリーって僕あんまり知らないんですよ。最近流行ってるみたいですけど。」

小板は、田子作からの紹介で来た目の前の男性が養卵店『西洋物産』の若社長であることは知っていたがグルテンフリークッキーを持参して店に置かないかと言われることは想像していなかったのだ。

「間違いなくこれからトレンド入りしますよグルテンフリー。もちろん低フォドマップもですけど。」

目をキラーンと輝かせる吹雪世太郎ふぶき よたろう。

彼も小腸過敏性症候群患者の一人でもあった。

「田子作さんの話ではグルテンフリーの店としてもうすぐ6年目に入るけど全然人気無いって嘆いてましたけど。」

小板はシナリオを書きに毎日来店する田子作のボヤキを良く耳にしていた。

「それは少し前までの事ですよ。最近では人気女優さんやプロアスリート選手がこぞってグルテンフリー信者になってるんですよ。一般の人だって彼らを見て真似し始めますよ。きっと。」

吹雪の自信は揺らぎそうに無い。

「ですかねぇ?ちなみにそのクッキーは一枚おいくらなんですか?」

徐々に興味が湧いて来た小板はこの後吹雪に色々と質問するのだった。

「・・・まさか。」

余りのショックに絶句するエーコ。

手にしたマニュアル本を思わず落としてしまう。

「・・・身代わりオプション?」

落としたマニュアル本をそっと拾い上げると小脇に抱え部屋を出た。

自宅の鍵を閉めるとトボトボとコントローラーの置いてあるビジネスホテルの方へ歩き出したのだった。

日堂屋はもう居ないので脅威は去ったのだがエーコは真夏にもかかわらず悪寒に自分を抱きしめる。

ようやくホテルへ着き荷物をまとめ受付カウンターで会計を清算してもらう。

エーコは正面玄関を出ようとしたが自動ドアが反応せずおでこをぶつけた。

だが痛さよりも考え事に気を取られていたため声を上げることはなかったのだった。

不意に自動ドアが開き誰かが入ってきた。

ボーっとしていたエーコはすれ違う西田原には気づかない様子である。

エントランスに入った西田原は思わず振り返りエーコがチェックアウトしたことに気づきギョッとした。

一体何が入っているのか分からないがいつもパンパンに詰め込まれたリュックを肩にかけて今まさに出て行こうとするエーコを西田原はどうすべきか分からずに立ち尽くす。

「おい、バイト。何してんだよ。就業時刻過ぎてんだろうが!」

先輩ホテルマンが怒鳴る。

「カチンときた!!もう辞めます!!」

振り向きざまに西田原はそう吐き捨てるとエーコの後を追ってホテルを出たのだった。

驚く先輩従業員を尻目に気づかれないようにエーコを尾行する西田原。

当て所無く歩くエーコはいつの間にか中央町の若苦佐公園わかくさこうえんのベンチに腰を下ろしていた。

「・・・元々は私のミスが原因なんだよね・・・」

エーコの顔色は傍目からも青白く見えるほど血色を失っている。

「どうしたんだろうエーコさん?しかしどうすりゃ良いんですか?」

公園入り口付近の大きな楠くすのきの陰に隠れエーコの様子を窺う西田原。

昼前になってようやく目を覚ました横池は外が騒がしいことに気が付いた。

カーテンの隙間から様子を窺うとテレビカメラが数台設置されている。

他にも10数人の報道関係者と思われるクルーがこちらの様子を見ているのだった。

「まだ帰ってないんだろうな?お前ドアをノックして来いよ。」

ディレクターのような男性が司会者らしき女性に命令しているのが聞こえてくる。

ハンディーカメラを肩に担いだ男が勝手に庭に侵入しようとしている。

「あ、ばか、そこは・・・」

横池が小声を上げた瞬間、カメラマンは見事に落とし穴の中へ消えていった。

「うわっ!」

ゴツン、グワシャーン!!

頭を強打した上にカメラが壊れる音が聞こえてくる。

「不法侵入したんだから自己責任だ。」

まだ酒の残っている頭を抱え壁を背に畳の床に座り込む。

外ではカメラマンを救出しようと大騒ぎになっている。

しばらくすると大半のスタッフが車にカメラマンを乗せて引き上げてしまった。

横池は迎え酒を浴びようと昼飲みの出来る居酒屋へ行くことにした。

二日酔いの頭痛に堪えながらふらふらと中央町を目指す。

十数分後に店に到着したものの開店まで5分ほど待たされることになった。

尿意を催した横池は若苦佐公園にトイレがあることを思い出す。

中心市街地の公園は防災上の都合で大勢の人を収容できる面積の確保が必須である。

この若苦佐公園も例外ではない。

ステージまである広い円形状の広場の端には機関車も置かれている。

その機関車の隣に男女別々のトイレがあり、横池は小走りで男子トイレに掛け込むのだった。

横池は用を済ますと何を考えたのかステージに向かって歩き出した。

エーコが座るベンチの横を通り過ぎてゆく。

ぼんやりしているエーコは横池にも気が付かない。

ステージに上がった横池は歌手さながら中央に客席を見下ろす様に立ち、唐突に歌い始めた。

「わたーしが、もしもあなーたと、出会ってなーければぁ~♪」

ご機嫌な大声で歌う横池にようやくエーコは気が付いた。

何をしているのか全く理解できずにただ茫然と横池を見つめている。

横池も立ち上がりこちらを見ているエーコに気が付いた。

だが歌を歌い続ける。

サビの楽章に入ると一層大きな声で歌いながらエーコに手招きする。

それまで事態が呑み込めずにいたエーコだったが、横池の『いつもの田子作』っぷりについに吹き出してしまった。

横池は何回も同じ歌を歌い続ける。

エーコも徐々に笑顔になり、ついに『田子作』に招かれるままステージに上り一緒に歌い出した。

エーコは絶対音感があったがボーカロイドのような声質で一方の横池は聞くに堪えないほどの音痴だった。

それでも二人は楽しそうに歌い続ける。

これを見ていた西田原はチャンスとばかりにベンチに置き去りにされたバッグ目掛けてコソコソとベンチ裏に辿り着いた。

気づかれないようにバッグを手繰り寄せると、中からコントローラーを取り出しUSBを差し込み何かのデーターをインストールする。

数秒で作業を完了させるとまたバックにコントローラーを押し戻し、バックもベンチに戻したのだった。

「よし、任務完了!!」

小さく呟くと元来たように中腰でコソコソと公園出口へ逃げていった。

そんなことには全く気付かない二人は、面白がって集まって来た観客にますます気を良くして声を張り上げるのであった。

気が済むまで歌った二人に気づけば大勢の人が拍手を送っていた。

深々とお辞儀をしてステージを降りる二人に拍車は鳴り止まなかった。

エーコはバックを取ると横池の横について歩く。

すっかり機嫌を直した横池は目を輝かせて歩く。

「寿命があるって本当に素晴らしいことなんだな。」

穏やかな口調でそう語る横池をエーコは見上げる。

黙ったままエーコは横池の右腕に腕を回した。

少し驚いた横池だがそのまま腕を組んで人ごみの中を歩いて行く。

「俺、最後の瞬間までこっちにいるよ。」

静かな口調だが決して悲壮感は無かった。

「私は最後の瞬間まで田子作さんと一緒に居ます。」

覚悟を決めたエーコの横顔は凛々(りり)しさが漂っていた。

二人はもう何も話さず腕をシッカリ繋いでゆっくりと歩いて行ったのである。

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