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第5話 クズとの遭遇

『空はどんより曇っているが、今の僕にとってそれは大した問題ではない。こんなに爽快な気持ちになれたのは十数年ぶりなのだから。

明け方の小雨が大気中の塵やごみを洗い流してくれたのだろう、眼に映る全ての景色がキラキラ輝いて見える。

思い切って引っ越してきた甲斐があったと思う。

こんな風に朝の散歩を愉しめるゆとりを取り戻せたのだから。

その日の天気なんてむしろスパイスのようなもの。

僕が会社を辞め、次の就職先も決まっていないのに、この町へ引っ越して来たのには、主に二つの理由があった。

一つは、神社仏閣好きな僕の心を鷲掴みにした春雨神社の存在である。こじんまりした敷地の神社は、大分市だいぶんし中心市街地にありながら、巨大な御神木がそびえ立っている割と古くからある神社だ。

本殿は宮大工の仕事らしく、屋根の梁の大きく湾曲しながら滑り降りてくるようなフォルムが印象的だ。

その上に乗っている瓦も瓦職人の遊び心の表れか至る所に伝説の生き物を模した細工瓦が配置されている。

麒麟きりんに鯱鉾しゃちほこ、それと弁天様まで?まぁ、そんな感じだ。

境内は毎日の清掃のおかげか隅々まで手入れが行き届いている。

鳥居もそこへ掛かるしめ縄も神社の規模からすればかなり立派だし、入ってすぐ右側の池のほとりに置かれた寝そべる牛の石像は神社を訪れる多くの人からご利益を授かろうとその身体を擦られている。

職人からも参拝者からも本当に愛されていることが窺い知れるんだよな。

大分県民だいぶんけんみんなら「雨の春雨様」と言うフレーズを一度は聞いたことがあるはずだ。

大分の夏祭りの一番初めが六月五、六、七日の三日間執り行われる「春雨祭り」なのだが、この三日間が晴れることは滅多にない。

少なくとも一日、悪くすると三日間とも「雨天」になる。このことから毎年この時季になると、テレビやラジオでは、「雨の春雨様、今年はどうなるでしょうか?」とか話題で、それはそれで一種の風物詩みたいになっているよな。

そう言えば再来月じゃないか。楽しみだな。

そして僕がこの町に引っ越してきたもう一つの理由は…。』

「あ、もう間に合わん!だから言ったのに。田子作のアホ。白い鼻毛一本だけ伸びろの呪い!弁当を積み込むのを手伝って!早く!」

若い女性の声で西田原の思索は遮られた。

「もう行ってくる!!」

女性は軽自動車のタイヤを軋ませて急発進した。

気づけば今日も西田原は春雨神社でのお参りを済ませていた。

携帯を見ると時刻は十一時半を少し過ぎている。

昨日、彼がここに来た時には気づかなかったが、鳥居と道路を挟んで、真向かいのビルの一室に「レストラン洗濯船」の文字がプリントされた暖簾がかかっていた。

「レストランたって…」

店頭には自作であろう木製の長い2段の棚が置かれ、その上には所狭しと駄菓子や自家焙煎珈琲豆などが置いてある。それに大分中からかき集めて来た特産品のリストを貼った大きなボードまで設置している。窓ガラスには波をイメージしたような渦巻き模様のシールが貼ってある。

しかし棚には「レストラン」らしいメニューや食品サンプルは何一つ並んでいない。

よく見れば入口側に立て掛けられたブラックボードに、かろうじて「本日の洗濯船弁当メニュー」とある。

「なになに、今日はニラ豚、メンチカツのカレーがけ、生から作るポテトフライに…フルーツは『瀬の輝き』?」

店内を覗き込んでみるが誰も居ない。

恐る恐るスライド式の両開きのドアに手を掛けたが右手側のドアは固定されているようで動かない。仕方がないのでもう一方の扉を滑らせ声を掛けた。

「あの〜すみません…」

店内には聞き覚えの無いジャンルの音楽が流れており、正面の赤く塗られた木製の壁の向こうからは何かを揚げている様な音がする。

「あの〜…」

「あ、ごめん!今日はもう弁当売り切れた!じゃ、また明日!」

表に出てきた店主と思しき男性が答えた。

「えっ!・・・そう、そうなんですか・・・あ、すみません。」

いきなりの返答に戸惑ってしまい思わず謝った。

「・・・」

男は何か言いたげに僕を見つめていたが仕方が無いので向きを変え店を出ることにした。

「・・・あ、俺たちの分を取り置いてるからそれで良ければ。」

ふいに背後から予想外にも声を掛けられ慌てる青年に男は続けてこう聞いた。

「で何個?」

「あ、一個で良いんですけど」

青年は空腹だったので嬉しさが込み上げてきた様子。

「ご飯大盛りでも同じ金額だけど?」

「あ、普通で良いです」

「ちなみに『一部づき米』と白米のブレンドにも出来るよ」

「一部づき米って何ですか?」

「玄米にちょっとだけ傷を付けて精米した米でさ。栄養は玄米とほぼ一緒なのに白米みたいに柔らかいんだよ」

「あ、じゃ、そのブレンド米で」

「あいよ!」

テンポの良い張りのある声の調子から男性は四十代と思われた。

五分ほど待っただろうか、まだ湯気が立っているご飯の入った弁当を持って料理人の男が厨房から出て来た。

「ヤベ、また蓋が閉まらん程入れちった」

見ると弁当箱の蓋が山盛りのご飯とおかずのせいで閉められないようだ。

男は指を広げ四隅を同時に押さえたい様子だが、三箇所が閉まれば残りの一箇所が浮いてしまいなかなか上手くいかない。

「あ、大丈夫です。家近いから」

見兼ねた青年は蓋の閉まらないままの弁当を袋に入れてもらうことにした。

「悪りぃね、ハハ」

バツが悪そうに男は笑った。

近くで見ると、ガッチリした体格だが顔はどこか幼い感じで年齢不詳だと青年は思った。

「初めてみる顔だけど、近くに引っ越して来たか何か?」

いきなり言い当てられ少し驚いた青年に男はすかさず付け加えた。

「あ、うちの御客さんはご近所さんばっかだから。見たことない顔だなと思って。ほらこのシーズンじゃん?転勤とか、入学とかさ」

「実は昨日引っ越して来たばかりで」

男は人懐っこい表情でニコニコしているので、青年の緊張も緩んできた。

「なるほど!道理でね。あ、俺、田子作。ここの料理人にして召使い。」

唐突に店主がふざけた自己紹介をする。

「ぐふっ。」

これには思わず吹き出してしまう青年。

「ははは、ツボに入った?」

楽しそうに田子作が問いかける。

親しみやすい性格にすっかり打ち解けて行く青年であった。

この日を境に毎日昼と夜の弁当を買いに来るようになった青年。

彼は西田原さいたばると名乗った。

徐々に打ち解けていった西田原は自分の現状を話し、田子作に悩みを聞いてもらうようになっていった。

「泥棒猫!」

エーコはそんな西田原のことを彼が居ない所ではこう呼んでいた。

「おいおいやきもち焼いてんのか?気持ち悪いなぁ。彼だって大切なお客の一人だろ。」

田子作はそんなエーコを制する。

「だって『大目標』達成のために私たちはタッグを組んでるんですよ?貴重な時間を取られるのは困ります!」

眉間にしわを寄せて仏頂面をするエーコにため息で返す田子作。

「人生の大目標なんだからそう簡単に達成は出来んぞ。」

「何言ってるのですか?!残り5か月で達成しないと大変なことになりますよ!!」

「はぁ!?誰がそんなこと言った?何だよ大変な事って?!」

「あ、いや、大変なことになりそうな予感というか、その・・・」

エーコは歯切れの悪い話し方になった。

「あぁ?何か隠してるなお前?」

勘の鋭い田子作にタジタジするエーコ。

「べ、別に何も隠してませんよぉ。あーっ!また今日も遅刻じゃないですか!!」

時計の針は12時少し前になっている。

「やべぇ!急いで配達に出ろ!!き、気を付けろ!」

「行ってきます!!」

エーコはエンジンを吹かすといつものごとくタイヤを軋ませて発車するのであった。

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