第17話 田子作の過去
芸術大学への弁当配達がはじまり1週間ほどは順調に『誠の心弁当』を食べる人数が増えていたものの弁当の注文個数は変化が無いのに『誠の心実践者』の人数が伸びていないことに気づいたエーコ。
「おかしいなあ。ん? 待てよ。そうか、そういうことかぁ!!やばい!」
エーコはこの世界の軌道修正をするために酷似する別の次元から本人には内緒で田子作を拉致してきている。
田子作は逆方向進行性世界から来たためこちらの世界からすると物凄く巨大な『負のパワー』の持ち主であり、彼が何かするたびにこちらの世界が『あるべき未来』へと引っ張られ修正されるのである。
こちらの世界消滅まで残り5か月を切っている。
「1万食食べさせれば良いのではなくて1万人に食べさせて心の底から『誠の心』を思い出してもらわないと意味がないんだぁ~!!」
ようやく自分の勘違いに気が付いたエーコ。
その頃田子作は自宅のちゃぶ台に向かい胡坐をかいてノートに何やら書いている。
どうやら日記のようである。
「この1か月間なんかモヤっとすんだよな。エーコに対してもなんだか微妙に違和感を覚えるし。もしかすると若年性のヤバい病気じゃないだろうなぁ。とりあえず毎日日記を付けて自分の記憶の確かさを確認しないとな。」
そう言うとA3サイズのノートにこの一か月間の事を思い出しながら書き込んでゆくのであった。
しばらくして現代に追いついたのかノートを閉じるとノートの表紙にタイトルを書いた。
『田子作、心の風景』
「ブラーバー!!」
口笛や拍手喝さいを浴びるオペラ歌手。
今日のオペラは『カルミン』。
若い兵士と恋に落ちる自由奔放な女性の話である。
主役カルミンが恋の歌を歌い終わったところであった。
田子作も力一杯拍手を送り続けている。
エーコは田子作のそんな姿を意外に感じていた。
確かに本人は絵描きを自称するほど絵もデザインもセンスに長けているのは知っていたが音楽の良し悪しにも鋭い感覚も持ち合わせていたことに軽く驚いたのだった。
話は恋敵の登場から岩山での主役ホセと恋敵の対峙するシーンを経てクライマックスへと怒涛の如く流れ込んでゆく。
次第に全ての演者たちの芝居にも熱が入り、最後の有名なシーンでは主役に何かが降りて来たような迫真の演技に会場は一瞬シーンと静まり、固唾を飲む音だけが微かに聞こえる。
アドリブなのだろうか、本来最後まで歌いきるべき歌詞の最後を、恋に狂った自分の殺意によって歌うことが出来ずに絶句するシーンがあった。
ホセはカルミンを思わず刺し殺し「俺がこの女を殺した!!」と激情の果てに咆哮を上げ幕は下りた。
会場は大喝采に包まれ出演者達によるカーテンコールの間中拍手が止むことはなかった。
「鳥肌が立ちました!!轟とどろき先生はホセにピッタリのはまり役過ぎて神がかってましたね!!」
興奮したエーコが右隣の田子作を見た時、田子作の頬を大粒の涙が流れ落ちるのを見てハッとした。
そっと前を向いて何も見なかったフリをするエーコに気取られないようゆっくりと立ち上がり背中を向けて「ちょっとトイレに行ってくる」と潤んだ声で言い残す田子作。
『確かに感動物でしたけど男性がそこまで号泣するのかな?田子作さんは人より感受性が豊かだしな。』
田子作の内心を推察し一人で勝手に納得しているエーコであった。
「そんなことよりもどうすれば良いのか考えないと。田子作さんは半年で1万食達成出来るから何も問題無いと考えるだろうしなぁ。どうしよう。」
本当にヤバいと感じ始めるエーコではあったが良いアイデアは浮かんでこない。
会場から徐々に観客が居なくなり、田子作がトイレからすっきりした顔で戻ってきた。
「腹減ったな。何か食ってくか?」
エーコは外食よりも田子作の料理の方が良かったが、多くの料理人がそうであるように自分の料理を食べたがらない田子作に合わせて同意した。
結局いつもの近所のファミレスで夕食を取ることになった。
美味しいからというよりもネットショップを運営してる都合でパソコンその他の持ちまわる荷物の多い彼らが広いテーブルを二人で使っても何も文句を言われないからである。
それに先日怒らせたウェイトレスは15時頃までしか居ないのを二人は知っていたのでこの時間なら大丈夫だろうと言う計算もあった。
案の定、件のウェイトレスは居なかった。
ドリンクコーナーの目の前のいつもの席を確保し料理を注文する二人。
「俺さ、大昔に結婚してたんだ。」
唐突に切り出す田子作に一瞬何を言ってるのか理解できないエーコ。
「え?」
思わず聞き返す。
「そん時の嫁さんがストーカーに殺されたんだ。子供も一緒に。」
無表情で呟く田子作の言葉が衝撃的過ぎて演技なのか本気なのか判断が付かず固まるエーコに田子作は続けた。
「不思議なんだよな。一度父親になるとさ、もう子供は居なくなってもずっと心は父親のままなんだよな。」
下を向いていつもとはまるで別人のように朴訥と話す田子作にようやく本当の話だと理解するエーコ。
「そ、そうだったのですね。今まで一度も話してくれたことはなかったですね、こんな話。」
内容が内容だけに慎重に答えるエーコ。
「お待たせいたしました。ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
朝とは別の小太りな50代女性が2人分の料理皿を器用に持ってきた。
「あ、はい。」
エーコが皿を受け取りテーブルへ並べて行く。
ウェイトレスはそそくさと調理室へ戻ってゆく。
「すまん。関係ないお前にこんな事言って。さあ、飯食って屁こいて寝るか。」
そう言うと料理を次々と口に押し込んでゆくいつもの田子作。
エーコは今頃になって事の重大さを感じ始めていた。
田子作の元の世界にはここ10年行動を共にしている弟子の女性が居ること。
自分がその女性の記憶を乗っ取って田子作を利用してこちらの世界消滅を阻もうと企んでいること。
しかも半年を過ぎれば田子作の負のパワーが逆にこちらの世界に悪影響を及ぼすから目的達成次第元の世界に送り返さねばならないこと。
5か月後に元の世界に戻った瞬間、あちらの世界での田子作の寿命が尽きること。
「・・・自分勝手なのは私ですぅ。」
エーコは俯いたまま大粒の涙をポトポトとテーブルに落とし始める。
驚いた顔の田子作は食べる手を止めた。
「人生の大目標なんて言っておきながら本当は自分のために必死になってるだけ・・・」
遂に両手で顔を覆ってヒンヒンと泣き始めた。
流石に田子作もこれには困惑してしまった。
「す、すまん!俺がつまらんことを口走ったせいで・・・」
優しくエーコのおでこを撫でる田子作。
エーコが泣き止むまでゆっくりとオデコを撫で続ける田子作。
不意にピタリと泣き止むエーコ。
ゆっくりと顔を上げ、焦燥の表情を見せる。
「ん?どうした?」
不思議に思った田子作が尋ねた。
「今、私のおでこを撫でてましたよね?」
唇から血の気が引いている。
「え?まさかセクハラとかってんじゃないよな?」
女性の扱いに慣れていない慌てる田子作。
「大変です!雨が、大雨が来ます!!早く帰らないと!!」
意味不明なことを口走るエーコに『とりあえずセクハラじゃなくて良かった。』と考える田子作である。
エーコは殆ど料理に手を付けないまま勘定を済ませ外へ出て行こうとする。
大急ぎで追いかける田子作。
ドアを開け階下の駐車場へ降りている間に急に雨が降り始めた。
「へ?本当に雨が降り出したな?」
冗談半分の田子作にエーコが振り向いて答える。
「私のおでこを人間が触ったら大雨が降るんです。二度と触らないでください!!」
キッと怒った表情のエーコに笑えなくなっている田子作。
「す、すまん。」
信じた訳ではないが何かしらの意味が込められた発言だろうと考え素直に謝ったのである。
自宅近くに借りた駐車場からアパートに辿り着く頃には道路は踝くるぶしが浸かるほどの大雨になっていた。
「ひゃー!!降らせることが出来るんだったら止めることも出来るだろうが!!」
「それが出来ないからヤバいんですよ!!もう絶対におでこ触らないでくださいよ!!」
二人はそれぞれの部屋へ急いで戻っていった。
雨は深夜過ぎまで続き、二人の部屋は床下浸水したのであった。