第29話 渦中の人
すやすやと寝息を立てる田子作。
「あ、田子作さん、ちょっと頭を上げてください。」
センス抜群の美容室『コンモリセンスデザイン』のオーナー店長の山森剛やまもり つよしは気分が良くなって熟睡してる田子作を起こす。
「んあ?あ、悪い悪い。つい気持ち良くって寝落ちしてた。」
口の涎を手の甲で拭い椅子に座りなおす田子作。
「後ろと横はこんな感じで良いですか?」
カリスマ美容師で有名な彼が洗濯船の通りの並びに引っ越して来たのは洗濯船移転の数か月遅れであった。
そんな事もありお互いに良く利用し合う仲になっている。
「うーん、も少し人気料理店の店長らしく超個性的な髪型が良いんだよな。」
8割方切り終えようとしていたところに無茶な要求をする田子作に平然と答える山森。
「じゃあ、アシンメトリーにしましょうか?」
「アシンメトリーって何?」
「シンメトリー(左右対称的)の逆で左右が対照的じゃない感じにカットするんですよ。」
確かにこの期に及んで出来る髪型は限られている。
「それって人気料理店店主に見える?」
またもやいい加減な質問をする田子作に優しく笑顔で答える山森。
「大丈夫です!人気店の天才料理人に見えるはずですよ田子作さんなら。」
さすが商売柄褒め上手な山森である。
すっかり気分を良くした田子作はされるがままになった。
「でも急に痩せましたよね、田子作さん?何かしてるんですか?」
山森は先月から急に痩せた田子作に驚いている。
「いや、特には。強いて言うなら自分の健康料理を自分でもきちんと食べるようにしてる事くらいかな。実は動画に出演することになって少し痩せないといけなくなっちゃて。」
身から出た錆である。現在イケメンかどうかは別にとりあえず細マッチョに向けて減量中である。
「何の動画なんですか?」
興味津々の山森は切り残した髪の毛をパツンパツンと軽やかに摘まみ切りしてゆく。
「実は俺が書いたシナリオなんだけどさぁ、皆が『面白いから是非とも動画にしましょう!!』って泣きついて来てさ。ほら、動画投稿サイトでドカーンと稼いでる奴が今どき一杯いるじゃん。皆あんなのに憧れてるんだろうな。俺はくだらないと思うけどな。」
実は田子作もこれで一発当てて南の島で美女を侍はべらせて暮らせればと妄想を逞たくましくしてる一人である。
「普通に俺たちの日常なんだけどさ、俺の周りって『使えない奴』が多いんで、そいつらを躾しつけて人として立派に成長させる為に俺が孤軍奮闘するって内容なんだよ。」
皆に成長させられ中の田子作が自慢げに語る。
「面白そうですね!」
本当に山森は『お上手』である。
すっかり機嫌を直した田子作は元気よく店の扉を開けた。
「帰ったぞ!」
「・・・一体何歳だと思ってるのですか?」
呆れたと言わんばかりにエーコが尋ねる。
鏡を見た田子作も驚いて口が開いたままになった。
右側の耳の上の髪の毛は青光りするほど刈り上げられ、一方、反対の左側の髪の毛はサラサラと長いまま剝すかれている。
まさしく左右非対称の超個性的な注文通りの髪型である。
しかし若者ならともかく50歳を超えた田子作は『年齢不詳の怪しい男』でしかなかったのだった。
舞い上がっていた田子作は美容室では鏡をほとんど見らずにOKを出していたのだった。
このため撮影は1週間ほど遅れて始まったのであった。
「わ、私は、うちゃじん・・・駄目や・・・」
エーコは脚本を必死に読んでいるがいざセリフとなると噛んでばかりで一行すらまともに読めない。
「これじゃあ間に合わないかもです。」
虎下が静かに追い打ちをかける。
「無理だな。誰かに代役を頼むしかないな。」
さらに田子作も追い打ちをかける。
「そうですね。エーコちゃんと背恰好が近い人って居ますか?」
森田監督は完全に諦めている。
「こいつと背恰好が近いずんぐりむっくりの人なんか滅多に居ないだろ。」
ガツン!!
田子作の頭頂部にエーコのハイキックが突き刺さる。
運動神経だけは野生動物並みである。
撮影風景を見に来ていた美奈が腹を抱えて笑う。
「食事シーンの背後からのカットなら自信があります!!」
食欲だけは女優魂のエーコであった。
「くそ、次々人が集まってくるじゃねぇか。隙が無ぇ。何とかしないとな。」
鍔つばの長い黒い帽子を目深に被り洗濯船付近での動画撮影風景を通りの離れた所から見て苦々し気にがにがしげに言葉を吐き捨てる細身の長身男。
ダブダブの長ズボンのポケットの底を破いて金属バットを差し込んでその柄つかの部分をポケットの中の右手で握っている。
歩く度に金属バットの輪郭がズボンの上から見え隠れするがダブダブのズボンのために誰も気づいていない。
男は田子作達が道路で撮影している横を通り過ぎ襲撃のチャンスを窺うかがう。
この日は屈強な虎下が現場に居て襲撃を諦めた。
何度か同様の行為を繰り返したが毎回何かしらの邪魔が入って行動を起こせないまま遂にチャンスを逃した男であった。
「クソが!!こうなりゃ一人きりになった所を襲ってやる。見てろよ!!」
帽子を部屋の畳に叩きつけ悔しそうに唸るのであった。
「あれ?まただ。」
撮影完了した動画を編集中のエーコは同じ人物が何度も動画に映りこんでいることを発見する。
とりあえずサブリミナル画像を大量に差し込むことに成功したエーコは田子作で実験しようと考えた。
プルルルー
「ピーチャン!!」
田子作より先にピー太郎が携帯電話に反応する。
「・・・んあ?・・・あいあい。」
酔って電灯を点けたまま寝落ちしていた田子作はちゃぶ台の向こう側に置いてある携帯電話を起き上がりながら手探りで探す。
指先に振動している携帯電話が触れた。
「ピーチャン!」
ピー太郎は負けじと鳴く。
「どっちもうるせーよ、もう。はい、もしもし。」
ようやく電話に出る田子作。
「何だよこんな時間に。」
眠そうに電話に出た田子作にエーコは勢いよく話す。
「まだ21時過ぎですよ!それより完成したので見て欲しいのです!今から行きますので!」
少し興奮しているエーコに田子作は冷静に返す。
「馬鹿か?ここは奴にバレてるんだぞ?俺がそっちに行くしかないだろ。」
起こされて不機嫌な田子作ではあったが最近の不審な事件ですっかり慎重になっていた。
「うら若き女性の部屋に脂の滾たぎった中年男性が訪れる方が危険ではないですか?」
「お前おちょくってんのか?もういい。俺は行かん。お前が来ても入れん。ふん!!」
寝起きが悪い所を揶揄からかわれて本当に腹を立ててしまった田子作であった。
「冗談ですよぉ!そんなに怒らないでくださいよぉ。そうだ!この間お客さんがくれたワインがなぜかここに置いてあるのです!」
慌てて取り繕うエーコは田子作を酒で釣る。
「・・・馬鹿野郎。そんなんで俺が釣れると思うのか?」
まんざらでもない様子にエーコは更に続ける。
「14年物らしいですよ、このワイン。」
「色は?」
「田子作さんの大好きな赤です。」
「つまみは?」
「なんと偶然でしょう!先日の佐伯の社長令嬢の真美ちゃんから頂いたアジのみりん干しが冷蔵庫に入ってます!部屋に置いてるトースターで美味しく焼けますよぉ。このみりん干しは普通のとは全く違って絶品ですから来ないと私が食べちゃうかもです。」
田子作陥落の音が聞こえた気がするエーコであった。
「10分ほどで着くから今から焼いておけ!!いいな!」
言うが早いか田子作は部屋を飛び出ると自転車を駆って隣町のビジネスホテルへと急ぐのであった。
そんな事とは知らない長身やせ型の男は田子作の部屋の前に立っている。
「これでお前は終わりだ。」
そう言うと手にした火炎瓶に火をつけ田子作の部屋の扉へ叩きつけた。
火の手はメラメラと木製の扉を焦がしながら登って行った。